さかなのためいき、ねこのあしおと

スウェーデン滞在記。現地時間の水曜日(日本時間の水曜日午後~木曜日午前中)に更新します。

復活祭・後半戦

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金曜日から、正式な復活祭が始まり、月曜日まで毎日、ウップサラ大聖堂に通いました。なんという贅沢な日々。金曜日は教会で礼拝のほかに、ヘンデルの『ヨハネ受難曲』のコンサートがあり、土曜日は深夜にろうそくの明かりだけで行う「光と祈りの礼拝」(これが一番すてきでした。後半は、持っているろうそくの蝋が手にたれてきてつらかったですが)、日曜日・月曜日には「復活祭の大型礼拝」がありました。日曜日には、礼拝の最後に水仙のつぼみをもらったのですが、これは、その日のうちに花が咲き、嬉しかったです。

今回気づいたのですが、金曜日はイエスの受難日=処刑された日、土曜日から日曜日にかけてが復活の日なので、金曜日に歌った賛美歌はすべて短調、それ以降のものは長調でした。

さて、クリスチャンでないわたしにとって、聖書は、基本的には研究の対象です。普段読むときには、論文と同じように、それなりに批判的に読みます。でも、教会に行って牧師さんの話を聞くときには、ほかの人たちが座っていたり、祈っていたり、歌っていたりする中で、信仰の対象としての聖書に接するわけで、今回、説教を聞いていて、「聖書って、いいことが書いてあるなあ」と思いました。

そう思ったあとでもう一つ気づいたのは、聖書はつまり、わたしが聞いて分かる=誰にでも分かるスウェーデン語で書かれているわけですよね。ほかの国でもそうだと思いますが、スウェーデンでは、聖書は時代に合わせて何度も改定されていて、現在の聖書は、2000年に改定されたものです。これは、お経や祝詞が、それなりの知識がなければ理解できないのとは、対照的だと思いました。一度、ご詠歌を聞いて「いいことが書いてあるなあ」と思ったことはありますが、それだって古典語には違いがないわけで、外国人が聞いて簡単に分かるものではないと思います。

これ自体は、習慣や文化の違いであって、どっちがいいとか悪いとかはわたしは全く思いませんが、ただ、研究者として論理的にものを書かなければならない時、子どもの頃から、「神とは何か」という最高度の問題を言語化する訓練を受けているキリスト教文化圏の人は、やっぱり強いと思います。

もう一つ、頭で知ってたことを理解したと思ったのは、復活祭は「春祭り」だということです。聖書には、もともと、イエスの処刑と復活について、具体的な期日の記述はなく(クリスマスも同様)、現在の復活祭は、キリスト教以前の農事暦と、キリスト教の祭が一体化したものです。日本にいる頃はもちろんのこと、去年の復活祭は4月でしたし、ドレスデンは3月は大分暖かかったので、あまりそうは思わなかったのですが、ここウップサラはまだ寒く、復活祭当日も雪が降りました。それでも、日は一日ごとに長くなるし、空の色は春めいてくるし、冬の中に春を感じるという、まさに「復活」を祝うのにちょうどいい時期でした。「主はよみがえりたまえり」という文言を、ウップサラの人たちは本当に嬉しそうにいい、わたしまで嬉しくなってしまいましたが、キリストの復活の喜びは、たぶん、春が来る喜びとも結びついているのだと思います。

リンドグレーンは、作品が日本語訳されるとき、スウェーデンの風俗が日本で理解されるかどうかを大変心配したということで、『やかまし村の子どもたち』のあとがきには、大塚勇三がかなり詳しくスウェーデンのことを紹介しています。その中で、スウェーデンの冬が長くて寒いという説明もあり、「それだけに、春を待つ気持ちはつよいのです。」という文章があったのを思い出しました。