さかなのためいき、ねこのあしおと

スウェーデン滞在記。現地時間の水曜日(日本時間の水曜日午後~木曜日午前中)に更新します。

プラハ2 3人で通訳

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プラハは治安が悪いので有名なのですが、プラハであった大きな出来事に、ウィーン行きの電車で同じ車両の別のコンパートメントにいた日本人が盗難にあう、ということがありました。

チェコの警官が来たものの、盗難にあった日本人は外国語がまったく出来ず、その日本人と同じコンパートメントにいた親切そうなドイツ人が、「どなたか日本語が分かる人はいませんか」とほかのコンパートメントを訪ね歩いていたので、「わたしは日本人で、ドイツ語が話せます」と名乗り出て、通訳をすることになりました。

しかし、こんなことは日常茶飯事らしく、まったくやる気のないチェコの警察官。わたしがドイツ語で状況を説明し始めると、「Ich kann nicht Deutsch sprechen.(ドイツ語分かりません)」と、正確無比なドイツ語で返事が返ってきました。で、仕方がないので、記憶の彼方にある英語で話そうとすると、今度の返事は、「I can't speak English.(英語分かりません)」でした。ここでわたしがチェコ語ができたら、ものすごくカッコ良かったのですが(あるいは、「チェコ語分かりません」というチェコ語が聞けたかもしれませんが)、わたしは東欧語は、ロシア語の「ダスビダーニャ(さようなら)」しか知りません。

被害者と警官に挟まれて、途方にくれていたところに、さっきの親切なドイツ人が、英語の分かるチェコ人というのを連れてきてくれました。しかし、わたしの英語は、ネイティヴやぺらぺらな人になら、がんばれば通じる程度で、そのチェコ人とはお互いになまりもあって意思疎通が上手くいかなかったので、英語のできるオーストリア人にも来てもらって、三人で通訳をしました。やる気のない警察官に代わって、その二人が、色々といい知恵を出してくれたのですが、わたしも、二人が英語で話してることは大体分かりましたし、そのチェコ人も、自分はドイツ語は話せないけれど、わたしとオーストリア人のドイツ語会話は大体分かっていたようで、こんなことを言っては被害者に失礼なのですが、それはそれでおもしろく、なんだかよく分からない連帯感のもと、三人で大いに盛り上がったのでした。

その昔、ペリーが浦賀に来た時は、英語と日本語の両方が話せる人がいなかったため、オランダ語のできる日本人と、英語のできるオランダ人が、二人で通訳に当たったそうですが、今回はそれ以上の至れり尽くせりぶりだったわけです。ちなみに、ペリーは1858年の6月に来て、「来年また来る」と言って帰っていったのが、通訳の段階で、幕府には「一年後に来る」と伝わり、翌1859年の1月にペリーが再び来た時、まだ半年あると思って何も準備していなかった幕府は泡を食ったという話を、小学校の頃に塾で習いました。それにしても、なぜわたしは、覚えるべきことは覚えないのに、こんなコラム的なことばっかり覚えているのでしょうか。