さかなのためいき、ねこのあしおと

スウェーデン滞在記。現地時間の水曜日(日本時間の水曜日午後~木曜日午前中)に更新します。

155kmのベルリン散歩 3 窓のない家

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歩く前、「ベルリンの壁博物館」に行ったことは導入にも書きましたが、ここの展示に、わたしはひどく違和感を覚えました。

展示は、1953年6月17日、東ベルリンを占領していたソ連軍に対する、初めての蜂起から始まります。ウンター・デン・リンデン通りの逆側、ブランデンブルク門から「ジーゲスゾイレ(勝利の女神像)」にいたる大通りは、「6月17日通り」と言いますが、その名前は、この出来事を祈念して付けられたものです。この蜂起が最初に来るということ自体が示すように、展示全体が、東ベルリンの歴史=ソ連東ドイツの圧制対自由を求める民衆の歴史として描かれていました。

壁が崩壊して以来、テレビの報道も、こうした歴史的な展示物でも、概して、「社会・共産主義に対する資本主義の勝利」が、「圧制と言論弾圧に対する自由と民主主義の勝利」にすり換えられていますが、資本主義が社会主義との経済競争に勝ったということは、そのまま資本主義の倫理性を示すものではないし、また、実際に東陣営で、言論弾圧は行われていたわけですが、だからといって、その「敵」であった西陣営が、自由で民主的だったことにはならないと思います。

それだけではなく、旧東ドイツ言論の自由がなかったから、民衆の日常生活が不幸と悲惨以外の何ものでもなかったというのも、どこかおかしいと思います。ベルリンに長く住んでいる人に聞いたのですが、旧東ドイツには、資本主義的な金の原理に支配されない、人間的なつながりも確かにあって、現在、東ドイツ出身者の中には、その時代を懐かしむ人もかなりの数いるそうです。ドイツ語で、東のことを「オストOst」、ノスタルジーのことを「ノスタルギーNostargie」と言いますが、この二つを組み合わせて、「オスタルギー」と言ったりするそうです。

壁の跡を歩こうと思ったのは、単にどこか歩きたかったからで、別に歴史を学ぼうと気負っていたわけではありませんが、歩く以上は、政治的な言説とは違う、壁の本当にも触れたいと思いました。悲劇の前にも後にも最中にも、普通の生活はあったわけで、もちろん、悲劇は、その普通を壊すから悲劇と呼ばれるわけですが、では、その中で営まれるすべてが悲劇一色だったかというと、そうではないと思います。悲劇の場所に行って、悲劇を悲劇として感じることは、それはそれで大切なことですが、その中にあった普通まで悲劇の色に脚色し、ステレオタイプ化することもまた、外から見る者の傲慢だと思います。

この日は天気もよく、歩いたところは、紅葉してとてもきれいで、上記のようなことを再認識したのですが、そのすぐ後、林の中で、窓のない家を見ました。2にも書いたように、旧東ベルリンでは、境界にあった家の、西側に面した窓はすべてふさがれたのですが、街の中心部は再開発が進み、こうした家はあまり残っていません。ここは、廃屋になっていて、窓もそのままになっていました。ブレヒトやゼーガースのような賢い人たちが集まって、なぜこのような国を作るのか、こうした場所で営まれる普通の生活とは何なのか、色々と考えさせられた回でした。