さかなのためいき、ねこのあしおと

スウェーデン滞在記。現地時間の水曜日(日本時間の水曜日午後~木曜日午前中)に更新します。

棄て難きはエリスが愛~森鷗外

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前回の記事は、森鷗外の『サフラン』の引用で締めくくりましたが、実は、わたしが鷗外をちゃんと読んだのは、今回ドイツに来てからでした。

初めて読んだ鷗外は、小学校のころ、『山椒大夫』でした(原文だったのか、簡単にしてあったのは今では定かではありませんが)。これは、安寿は好きだったのですが、姉が自殺を考えていると気づかずに無邪気に逃げてく厨子王に不満でした。次に読んだのは間があいて、高校生1年生のころ、国語の資料集の説明に惹かれて『安部一族』を読みはじめたのですが、資料的事実が延々と書いてあるのが当時のわたしには退屈で、斜め読みで終わりました。また、同じころ、弟に勧められて『高瀬舟』を読んだのですが、話は面白かったものの、弟のお勧めポイントがわたしの解釈と違っていたことの方が印象に残りました。その次は、ご多分に漏れず教科書に載っていた『舞姫』ですが、これは、一行ごとに文章のすばらしさに感動しつつ(「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」とか、「エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を濺ぎしは幾度ぞ」とか、かっこよすぎる)、豊太郎の優柔不断さにいらいら、身勝手さにぷりぷりしたものでした。最後の1ページを読んだときには、キレそうになりました。

そういった次第で、鷗外氏とはわりかし不幸な出会い方をし、封建的な内容と「コチコチの官」というイメージもあいまって、長らく敬遠してきました。

そんな見方が変わったのは2005年の夏、初めてベルリンに来たときでした。ブランデンブルク門の前に立ったとき、それまでは思い出すことさえなかった『舞姫』でのウンター・デン・リンデン通りからブランデンブルク門にいたる大通りの描写が思い出されて、というよりは、『舞姫』を読んで以降わたしの中にあったその空間が記憶の底から浮かび上がってきて、今立っている空間と一致する、というふしぎな体験をしました(もっとも、あのあたりは戦災で焼けているので、鷗外の描いた空間とは多分違うのですが)。わたしはドイツ文学を始める前から、「ベルリン」という響きが好きで、いつか行ってみたいと漠然と、でもずっと思っていたのですが、実はその憧れは、こんなところに起源があったのかもしれない、敵ながらあっぱれと思ったりしました。

舞姫』の中で、豊太郎はベルリンで母親の訃報を受けますが、鷗外は、1884年から88年まで4年間もドイツに留学しており、自分も留学してみて、4年も海外にいる間に親に死なれては、どんなにか情けなかっただろうと同情したりもしました(ただし、のちに知ったところでは、鷗外のお母さんは、鷗外の留学中には死なず、もっと長生きしています)。

さらに、長州と隣接した中国地方の維新雄藩の出身、東京とベルリンで勉強という共通点から、勝手に親しみを覚えたりもしました(もっとも、鷗外が19歳8ヶ月で大学を卒業したのに対し、わたしは19歳7ヶ月で大学に入学。四書五経が完璧だった鷗外に対し、わたしは誤字脱字の天才。鷗外がドイツにいる間一度もドイツ語の動詞の変化を間違えず、ナウマンと論争して勝ったりしているのに対し、わたしのドイツ語はいまだにカタストロフィとカオスの産物。一緒にされては、鷗外氏には至極迷惑なことと存じます)。

4年間のドイツ滞在のうち、鷗外がベルリンで勉強したのは最後の一年でしたが、その時に少しの間住んだ家は、現在、「森鷗外記念館」になっています。

一年前、ドイツに来る時、「辞書以外、日本語の書いてあるものには触れない」と誓ったのですが、冬学期に入り、研究上の必要から、鷗外を読まなければならなくなり、しぶしぶ(内心は少々喜びつつ)この誓いを破って、この記念館に何度か通って、日本語文献をいくつか読みました。そういう理由だったので、鷗外の原典はほとんど読めず、二次文献が主でしたが、それでも、引用部などを細切れに読むだけでも、すてきでした。前回の『サフラン』は、それで見つけたのですが、文章の完璧さもさることながら、森鷗外はそう「コチコチの官」ではなかったらしく、「金もうるの附いた服などは大嫌で、博士の給料では五百円の出費もままならないことから、大礼の時はいつも病気にすることに極まつてゐた」(『半日』)主人公を書いていたり、実生活では、娘の茉莉が、苦手な裁縫の時間に教師にいじめられて、次の裁縫の日、学校に行きたくないと柱にしがみついたことがあるらしいのですが、母親のしげが柱から引きはがして学校に行かせようとするのを、鷗外はそんなにいやなら今日は行かなくていいと言ったとか、文壇で派閥を作るのが嫌いで、サロンみたいな自由な雰囲気が好きだったとか、すてきなエピソードが目白押しで、あとはファン道まっしぐらでした。遺言を読んだ時には、感極まって涙ぐんでしまいました。

こうしてめでたく、わたしの止まらないトークのヴァリエーションが一つ増えたわけなので、帰国の折には、日本の皆さんはご注意ください。わたしの前でうっかり「鷗外」とか言おうものなら、周囲の人々に白い眼で見られること請け合いです。語りたいことはまだまだありますが、いい加減長いので、中でもお気に入りの、イプセン作・鷗外訳『牧師』のラストシーンを引用して、今日の記事を終えることにします。

画工 (娘に)凪か暴風(あらし)か、夜(よ)か昼か、
    去就のまどひは なきものを。
娘  (立ち上がり)夜にこそ就かめ。遙なる
    朝日の光を たよりにて。