さかなのためいき、ねこのあしおと

スウェーデン滞在記。現地時間の水曜日(日本時間の水曜日午後~木曜日午前中)に更新します。

わたしに似た人~尾竹紅吉

まだ知り合って間もない人と話していて、相手が話題に窮すると、「芸能人で誰に似ているといわれますか」と聞かれることがあります。しかし、わたしに似た芸能人が特にいないのか、キムタクすら認識できないわたしに芸能人の話をしても無駄だと思われているからか、わたしは芸能人に似ていると言われたことがほとんどありません。

例外として、弟の友達が遊びに来て、「お姉さん、松たか子に似てるね」といって帰っていったことがあるそうですが、その話を松たか子ファンの人にしたところ、相手は鈍器で殴られたようなショックを受けて、ふらふらとどこかへ消えてしまいました。また、別の人からもらった手紙に、「木の実ナナに似ている」と書かれていたことがありますが、その話を聞いた全員が、「まったく、どこも似ていない」と口をそろえ、木の実ナナ論者はわたしを誰か別の人と間違えたのだろうという結論に落ち着きました。

しかし、最近、ついにわたしにそっくりな人を見つけました。尾竹紅吉です。男みたいな名前ですが(ついでに、男みたいなキャラらしいですが)、紅吉はペンネームで、本名は一枝さん。芸術家ファミリーの出身で、お父さんは日本画家の尾竹越堂、本人はのちに、陶芸家の富本憲吉と結婚します。子育てに熱心で、富本一枝の名で〈暮らしの手帳〉に連載した『お母さんが読んで聞かせる話』は、単行本化され、ロングセラーになりました。

わたしがこの人物のことを知ったのは、最近、論文の関係で〈青鞜〉を読んだからでした(ベルリン州立図書館が所蔵していて、感激)。青鞜は1911年9月に創刊され、紅吉は早くも1912年1月から同人となり、たちまちらいてうに気に入られます。入社早々に編集にもかかわり、精力的に作品を投稿、1912年9月の1周年期年号では、表紙の版画を作成しています。

意外と知られていませんが、〈青鞜〉創刊号の表紙は、後に高村光太郎と結婚することになる長沼智恵子が描いています。わたしはこれが大好きでして、1912年8月号に、「来月は記念号だから、智恵子さんがすごい表紙を描く」と予告されていたのを見て、わくわくしながら当号を手にしたのですが、「なるほどすてきだ」と思うと同時に、「でも、えらい智恵子のほかの絵と画風が違うな」と思いました。その号の編集後記を見ると、智恵子はそのころいい人(光太郎)ができて絵がそっちのけになり、記念号の表紙がどうしても描けずに、直前になって断ってきたそうです。

それで、紅吉が腕を振るうことになったのですが、わたしは、この人の書く文章は、とても好きなんだけれど、好きと公言することをはばかるような気がずっとしており、編集後記に、紅吉がああした、こうした、と書かれている人柄にいたってはまったく好きになれなかったので、記念号の絵が紅吉だと知ったときにはがっかりし、一瞬すてきだと思った自分を情けなく思ったものでした。

その後、紅吉は、「五色の酒事件」やら「吉原登楼事件」やらで、青鞜を一躍スキャンダルに巻き込みます。前者は、青鞜社赤字経営をフォローすべく、広告を取りにバーに行ってカクテルを飲んだ、後者は、昼間に叔父さんに連れられて吉原に偵察に行ったのを、新聞や雑誌が尾ひれをつけて面白おかしく書いたのが、世間の好奇心の的になったようです。らいてうは、「新聞や雑誌に書いてあることは本当じゃないし、仮に本当だとして、男なら当たり前にしていることを女がやってなぜいけないのか」と、至極まっとうな反論をするわけですが、「青鞜社は男になりたがる不良女集団」という世論は着々と形成されていきます。

入社して1年がたったころ、紅吉は退社し(この間の事情はいろいろな人がいろいろなことを書いていてよくわからないのですが、どうもらいてうと個人的にもめたらしい)、らいてうは紅吉との出会いから別れまでを書いた「一年間」の連載をはじめます。これは、残念ながら未完に終わってしまい、紅吉本人が登場するまでは続かないのですが、あっと思ったのは、らいてうが引用している「情熱的で、誤字の多い手紙」を読んだときでした。つまり、「この人は、わたしに似ている!」と分かったわけで、文章や絵に対する気持ち悪さや、人柄が嫌いだったのは、要するに同属嫌悪だったようです。そこから先の「一年間」は、自分の亡霊を見ているようでした。

同属を嫌悪しようと何だろうと、似ていると分かると気にかかるのが人の世の常。暇を見つけては「尾竹紅吉情報」を探した結果が上記でして、ついに写真を見つけたときには、思わずふきだしてしまいました。

紅吉の去った青鞜社は、ほぼ入れ替わりに入社してきた伊藤野枝がめきめきと頭角を表し、女性問題を特集したり、欧米の女性解放論の翻訳を載せたりする、まじめな雑誌へと変貌していきます。一方の紅吉は、「純文芸雑誌」と銘打って〈番紅花(さふらん)〉という雑誌を創刊します。〈番紅花〉は、半年ほどで廃刊しますが、創刊号の巻頭文が森鴎外のエッセイ『サフラン』だったりして、とても魅力的な雑誌だったようです。わたしは森鴎外には苦手意識があったのですが、このエッセイはミラクルフィット、たちまち鴎外ファンになりました。今日は、そのエッセイの末尾を引用してお別れしたいと思います。

これはサフランと云ふ草と私との歴史である。これを読んだら、いかに私のサフランに就いて知つていることが貧弱だか分かるだらう。併しどれ程疎遠な物にもたまたま行摩の袖が触れるやうに、サフランと私との間にも接触点がないことはない。物語のモラルは只それだけである。
 宇宙の間で、これまでサフランサフランの生存をしてゐた。私は私の生存をしてゐた。これからも、サフランサフランの生存をして行くであらう。私は私の生存をして行くであらう。(尾竹一枝君のために。)