さかなのためいき、ねこのあしおと

スウェーデン滞在記。現地時間の水曜日(日本時間の水曜日午後~木曜日午前中)に更新します。

探し物が見つかる

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わたしは、おっちょこなので、よくものをなくします。が、結構執念深くさがすので、かなりの可能性を持って見つけ出します。

ドイツに来て、まだドレスデンにいる頃、スーパーの帰りにマフラー(高かった)を落としました。夜中に気づいて、次の朝早々にもと来た道をたどってみると、スーパー前のゴミ箱にかけてありました。前日は土砂降り、自転車に轢かれたあともあって気の毒な姿でしたが、きれいに洗って、今でも使っています。

5月、3本の論文の締め切りに同時に追われていた頃、1ユーロが戻ってくる式のロッカーに1ユーロを、パソコンルームに万年筆を、図書館にコピーカードの入った定期入れを相次いで忘れました。この頃はすでにコーヒーが効果を示さず、コカコーラで眠気を覚ましていた頃でした。1ユーロはたまたま次の日同じロッカーを使った際に発見(イタリアの1ユーロだったので、多分間違いないでしょう)、ほかの二つも、受付に保管されていました。この定期入れはやたらラッキーな定期入れで、もう十数年使っていますが、一度は京都で落としたのを兵庫から旅行できてたおじいさんが、二度目は大学構内で落としたのをインド人留学生が拾ってくれて、戻ってきました。

同じ頃、首飾りが見当たらなくなりました。高いものではなかったのですが、お気に入りで、方々探したのですが、見当たらず、さすがにあきらめたところ、半年経った12月、夏に1度履いたきりだったズボンを洗おうと思ってポケットを探ると、中から出てきました。

そして、今回。月曜日に家に帰ると、時計がありませんでした。教室か図書館だろうと思い、次の日に探すことにしたのですが、1時間目の授業が終わってすぐは、どちらもまだ開いていなかったので、一応と思って、月曜日の帰りに立ち寄った薬局でも聞いてみたところ、なんと、ここにありました!外したのをつけ忘れたのではなく、腕から外れて落ちたようです。薬局の外だったらまず見つけるのは不可能だったので、ラッキーでした。

とても不謹慎な話のつなげ方ですが、わたしはこういう場面に遭遇するたび(遭遇しすぎですが)、『ルカによる福音書』に書かれた「失われた息子」の話を思い出します。さる金持が、二人の息子に遺産を半分づつ与えたところ、一人は家に残ってまじめに働いたのに対し、もう一人は放蕩して見る間に金を使い果たし、すっからかんになって家に帰ってきます。放蕩息子は、父親の前にひざまずいて、「お父さん、私は悪い息子で、あなたを父親と呼ぶ資格はありません。どうか、下男としてこの家において、夜露をしのぐ屋根と、生き延びるだけの食べ物をください」というようなことを言うのですが、父親は非常に喜んで、家人に命じて、息子にきれいな服を着せ、指には指輪をはめ、太った豚を殺して宴会の準備をさせます。まじめに働いていた方の息子が文句を言うと、父親は、「この子は一度死んで、蘇ったのだから、今日はそのお祝いをするんだ」と答えます。

この話、ジイドやリルケなども作品化しているのですが、わたしが始めて知ったのは、小学校4年生の頃、『ハイジ』を読んででした。『ハイジ』の原作は、かなり宗教色の濃い話で、ハイジに初めて会った頃のおじいさんは神を信じず、教会からも村人からも縁を切って暮らしています。ハイジは、フランクフルトのクララの家で初めて信仰に触れ、帰ってきて、おじいさんに、この放蕩息子の話をし、おじいさんはそれを機に信仰を取り戻します。ハイジが眠ったあとで、おじいさんが一人「私には、あなたを父親と呼ぶ資格はありません。」と、放蕩息子と同じ言葉を発する場面がわたしはなぜかとても好きで、繰り返し読んだものでした。わたしはドイツ語のアルファベットも、ハイジがペーターに文字を教えるシーンで覚えたので、侮るなかれ、『ハイジ』は貴重本です。

今日は、なくしものの話だけ書くつもりだったのに、筆が滑って長くなりました。長くなりついでに書いておくと、2005年公開の映画『ハイジ』は、脚本も子役もいまいちでしたが、ジェラルディーン・チャップリン(チャーリーの娘)演じるロッテンマイアーさんと、スウェーデンの名優マックス・フォン・シドウ演じるおじいさんが最高でした。おじいさんが良かっただけに、上記の場面がなかったのは残念でしたが。

わたしは、映画館で字幕版で見たのですが、日本語吹き替え版は、オリエンタルラジオの藤森がセバスチャンを、中田がヤギのデイジーを演じています。オリエンタルラジオをよく知らないので、二人の格差が妥当かはわかりませんが、ヤギを吹きかえる必要があるのかは、もっとわかりません。