さかなのためいき、ねこのあしおと

スウェーデン滞在記。現地時間の水曜日(日本時間の水曜日午後~木曜日午前中)に更新します。

時刻あやまたず~江口きち

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この日曜日、12月2日は、わたしの好きな歌人、江口きちの命日でした。

26歳で自殺した、ほとんど無名の歌人なのですが、亡くなった時枕元においてあった以下の歌を、同郷の司修が日経の文化欄で紹介していたのを読んで、好きになりました。

大いなる この寂けさや 天地(あめつち)の 
時刻(とき)あやまたず 夜は明けにけり

司修は、この歌人の歌にインスピレーションを受けた絵を何枚か描いています。

江口きちは、1913年、群馬県に生まれました。両親は流れ者だったのが、地元のやくざに拾われて、きちが生まれる直前に定住するのですが、父親は、やくざ同士の抗争で相手方に死者が出た際、組の者全員が服役する中で一人逃亡し、母親は、一家の生活を支えるために一膳飯屋を始めます。この店は、宿場の旅人相手の、多分にいかがわしい店だったようで、若いきちは母親に反発し、尋常小学校(きちは、小学校時代から成績優秀で、アメリカから送られた青い目の人形を、全校児童代表で受け取っています)を卒業してしばらくは、和裁をやっていたのですが、やがて家を出て、郵便局で働き始めます。この頃に、河井酔茗の主宰する雑誌〈女性時代〉を講読、和歌を投稿するようになります。

きちが17歳の時、母親が突然亡くなり、きちは、時効成立の次の日に戻ってきた父や、知的障碍のある兄の世話をするために、家に帰って飯屋を継ぐことになります。しかし、経験不足ときつい性格から客とけんかになることも多く、おそらくは世界恐慌の影響もあって、経営が立ち行かず、和歌仲間が助けてくれるのですが、今度はそのうちの妻子ある人と恋に落ちてしまいます。相手は身分の高い軍人だったようで、ことが重大になる前にと外地勤務を願い出て、きちのもとを去ります。

きちはこの時、東京の美容院に奉公に出ている妹たきの年季があける一年後に、自殺すると決め、その一年のうちに、障子を張り替えたり、布団を縫い直したり、周りの人にそれとなく形見分けをしたりして、1938年12月2日早朝に、兄を道連れに服毒自殺します。枕元には、冒頭に紹介した歌を含め、二首がしたためられていました。妹は、その後結婚して満州に渡るのですが、大戦末期に夫は戦死、戦後の混乱の中で、二人の子どもに続き、本人も、ハルピンの収容所で亡くなっています。

きちの没後、河井酔茗はじめ有志が、『武尊(ほたか)の麓』という遺稿集を刊行し(現在は、ほぼ同じものが『江口きち歌集』の題で日本図書センターから刊行されています)、やはり和歌仲間の島本久恵が、伝記『江口きちの生涯』を書いています。

きちの遺したほかの歌は、不出来ではないものの、文学好きの女の子がちょっと作ってみました、程度のもので、上記の歌だけが傑出しています(河井酔茗もそう書いています)。初めてこの歌を知ってから何年もたち、その間にわたしはきちの年齢を超えてしまいましたが、それでもこの歌は、いつも変わることなく好きです。死ぬことに決めたからこの歌を作れたのか、この歌を作れたから死ぬ決心がついたのかはわたしには分かりませんが、文学者のはしくれとして、自他共に認める最高傑作を遺していける人生は、やはりうらやましいと思います。