さかなのためいき、ねこのあしおと

スウェーデン滞在記。現地時間の水曜日(日本時間の水曜日午後~木曜日午前中)に更新します。

リンドグレーン生誕百年

11月14日水曜日は、リンドグレーンの百歳の誕生日でした。公式ホームページも百年仕様になり(下記リンク)、ドイツでは記念切手が発行されたほか、新聞のオンライン版でも、いくつか特集していました。スウェーデンでも写真集が発行されたり、娘に贈った『ピッピ』のオリジナルが出版されたりしました。

http://www.astridlindgren.se/index_1024.htm

わたしには、「人生を変えた本」が何冊かあって、「あの時この本に出会わなかったら、わたしは少しだけ違う人生を歩んでいただろう」と思うことは多々ありますが、「人格を変えた本」は、たぶんリンドグレーンだけです。もしもリンドグレーンに出会わなかったら、わたしはまったく違う人間になっていたと思います。

小学校2年生のころに読んだ『やかまし村の子どもたち』は、家が3軒しかない村に暮らす、7歳から10歳までの6人の子どもたちの日常を、7歳の少女の一人称語りでつづった作品です。村に学校がないため、隣村の学校(これ自体が分校で、先生が一人、全部で一クラスしかない)まで長い距離を通うのですが、わたしも、それほどではないにせよ学校が遠く、行き返りは、頭の中にいるこの子どもたちとのおしゃべりの時間でした。共感できるといえば、3巻シリーズのうち、2巻の途中で、隣の家の男の子に妹ケルスティン(※)が生まれるのですが、当時、わたしの妹が一才だったこともあり、ケルスティンはお気に入りの人物でした。

高校生のころ、北欧の農村部では、人口が少ないため、小学校高学年以降の子どもは、近隣の比較的大きな町で下宿しながら学校に通い、週末だけ家に帰ることを知りました。そのときに、『やかまし村』に描かれた時間は、わずか数年だけの限られたもので、高校や大学に行こうと思えば、子どもたちは家を出て行かなくてはならず、全員がそろって暮らすということは、もうないのだということに思い至りました。そして同時に、ケルスティンはどうするのだろうと思いました。ほかの子どもたちは6人いたけれど、ケルスティンが小学校に上がるころにはみんないなくなっていて、彼女は一人で学校に通わなくてはならない、作中に、冬は、登校時も下校時も星が出ているので、6人でなければ怖い、といった記述があるだけに、ケルスティンの行方が心配でした。

その後だいぶ経ってから、ケルスティンは、友達がいた兄たちをうらやましく思いつつも、本を読むのが好きで、森の中で一人でいるのが好きな少女に育つのだろうと思いました。リンドグレーンは、孤独な子どもをたくさん描いています。ピッピにしても、「明るく楽しい」みたいなイメージが一人歩きしてしまっていますが、彼女の魅力は、彼女が一人で生きて行く力を持っていることです。「リンドグレーンに会わなかったら、人格が変わっていた」というのは、つまり、リンドグレーンは、孤独であることの価値を示した、(少なくともわたしにとっては)初めての作家で、「友達がたくさんいるのはいいことで、一人でいるのはいけないことだ」という学校的な価値を相対化したということです。心を許せる友人がそばにいるのは、確かに幸せなことですが、だからといって、孤独であることが不幸なわけではない、本を読むことや空想することは、友人の不在を埋める代替物などでは決してなく、それ自体に積極的な価値があるのだということは、リンドグレーンが確証してくれたと思います。

リンドグレーンが亡くなった2002年1月28日は、その前の土曜日に大学院入試が終わり、翌日からスウェーデン語を勉強し始めた直後でした。直接知った人ではなし、90歳を過ぎての大往生でしたから、悲しむことではないと知りつつ、それでも、親族や知人の死とは違う衝撃を受けました。これを以って、わたしの子ども時代は完全に終わったと思っています。これまでに思い残したことは多々ありますが、リンドグレーンスウェーデン語で手紙を書けなかったのは、今でもとても残念です。


(※)Kerstinは、スウェーデン語のヤヤコシイ発音規則を結集したような名前で、正しくは「シャスティン」と発音します。が、40年以上前に、原音に触れる機会などほとんどない中でスウェーデン語を独習し、すばらしい翻訳を世に出した大塚勇三に敬意を表して、また、わたしの中ではケルスティンはケルスティン以外の何者でもないので、この記事では「ケルスティン」で統一しました。尾崎義の訳した絵本『やかまし村のクリスマス』や、映画の字幕などは、「シャスティン」になっています。